みうらじゅんの『マイ仏教』を読んだ。読みやすい本だった。そして、あらためて仏教はおもしろいと思った。
仏教というと、難しい教義や古い経典を思い浮かべるかもしれない。けれど、この本を読んでいると、仏教は遠い昔の思想ではなく、日々の機嫌や人間関係、自分とのつき合い方を考えるためのものでもあるように感じられた。
自分をなくすということ
特に印象に残ったのは、「自分をなくす」という考え方だった。
「何で俺が」と思うのをやめ、相手の機嫌を取る。そうすれば人間関係は少し滑らかになる。ただし、これは単なる処世術ではなく、かなり大変な修行でもある。
自分を守るために、私たちはつねに「自分はこういう人間だ」と主張する。けれど、その「自分」に固執するほど、他人の言葉や態度に振り回されることも増える。自分をなくすというのは、自分を粗末にすることではなく、自分にしがみつく力を少しゆるめることなのかもしれない。
必死になって自分を探した結果、見つかったものが「たいしたことない」なら、たしかに徒労感が残る。むしろ、最初から「自分」というものを固定された実体だと考えない方が、楽に生きられるのではないか。
比較するから苦しくなる
仏教の教えとして、本書では四法印や四諦、八正道にも触れられている。
- 諸行無常
- 諸法無我
- 一切皆苦
- 涅槃寂静
この中でも、自分にとって大きかったのは「諸法無我」と「一切皆苦」だった。
人と比べるから苦しくなる。いま自分だと思っているものも、いま自分が所有していると思っているものも、固定されたものではない。そう考えると、比較のために自分を測り続ける必要はなくなる。
もちろん、比較を完全になくすことはできない。それでも、「いま苦しいのは、現実そのものだけでなく、何かと比べているからかもしれない」と気づけるだけで、苦しさとの距離は少し変わる気がする。
文化は欲望から生まれる
本書を読みながら、文化についても考えた。
文化は欲望からしか生まれないのではないか。もっと見たい、もっと知りたい、誰かに伝えたい、何かを残したい。そういう欲望が、漫画やゲームや音楽を生み出していく。
一方で、「文化を残したい」という考えそのものが、執着でもあるように思える。残したいと思うからこそ、形にし、言葉にし、次の人へ渡すことができる。しかし、残すことに執着しすぎると、文化が変化することを許せなくなる。
日本の漫画やゲームには、仏教に由来する言葉や世界観がたびたび登場する。仏教は宗教としてだけでなく、日本文化の底に流れるイメージや語彙としても生きているのかもしれない。
私の「マイ仏教」
みうらじゅんの本書における結論やまとめは、私が思う仏教的な感覚とは少し違っていた。
けれど、違っていてよいのだと思う。仏教を自分の生活にどう引き寄せるかは、人によって違う。誰かの教えをそのまま信じるのではなく、自分の経験や言葉を通して、少しずつ自分用の形にしていく。
自分用の念仏と、自分に説法をする「マイ住職」を持つ。そうして、いつも心の中に「マイ仏教」を置いておく。
これは、何か立派な信仰を持つということではない。気持ちが乱れたとき、自分に向かって言葉をかけるための小さな仕組みを持つことだと思う。
こうして考えている自分も、たまたま何らかの縁によって、ここに存在しているように思える。自分を特別な中心に置きすぎず、それでも自分の経験を引き受けていく。そのくらいの距離感が、いまの自分にはちょうどいい。
言葉を生み出し続ける
言葉には不思議な力がある。
言葉にすることで、ぼんやりしていた感情の輪郭が見えてくる。反対に、言葉にできないものは、いつまでも自分の中で大きな塊のまま残り続ける。
だから私は、自分をなくしながら本を読み続け、脳みそという関数を通して、言葉を生み出し続けてみたいと思う。
「自分らしい言葉」を探しすぎる必要はない。自分というものに固執せず、読んだものや出会ったものを通り抜けさせる。その結果として残った言葉を、自分のものとして書いていけばいい。
『マイ仏教』は、仏教を学ぶための本であると同時に、自分の機嫌や、自分という存在とのつき合い方を考える本でもあった。