そもそも定義する意味があるのか。
この問いを、読む側と書く側で分けて考えてみる。 それぞれ、SNSで投稿してみた。
読む側
「純文学が好き」と言いながら、自分は何を純文学と認識しているのか。文章の質で判断しているのか、それとも文芸誌や賞といった外側の分類で判断しているのか。 後者だとしたら、「純文学」ではなく「純文学と呼ばれているもの」を読んでいるのかもしれない。 自分の中の一つの基準としては、作者が頭の中をぶちまけて、読者に迎合することなく書きたいことを書いたものなんじゃないかなと思う。そういう本に出会いたい。
書く側
読む側や、場合によっては売る側としての純文学はなんとなくわかる。じゃあ書く側にとってはどうなんだろう。 狙って書くものではなく、書いたあとに第三者がつけるラベルなのかもしれない。 でも新人賞という入口がある以上、意識せざるを得ない書き手もいるはず。この「先か後か」が気になっている。 いつか長編を書いてみたいと思っているけど、こんな風に考えている時点で自分が書くものは大衆文学なのかもしれない。
今後掘り下げたいこと
- 「純文学として読んだ本」と「純文学とは呼ばない本」を並べて、違いを言葉にする
- 「これは純文学だ」と感じた一文を集める
- 書く側として、制度(新人賞・文芸誌)をどこまで意識するか
関連
- 芥川賞
- 未作成