もしライオンが話せたとしても、私たちはそれを理解できないだろう
— ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
この言葉は、哲学の頂の一つだと思う。
ライオンが人間の言葉を発音できない、という話ではない。仮にライオンが日本語を話し、私たちの質問に文法的に正しい文章で答えられたとしても、それだけで私たちはライオンを理解できるようになるわけではない、という話だ。
言葉は辞書の中にない
言葉の意味は、単語と対象の対応だけで決まるわけではない。「痛い」「怖い」「家」といった言葉が通じるのは、それぞれの言葉を使う場面があり、使い方があり、その言葉に反応する生活があるからだ。
ウィトゲンシュタインにとって、言葉は孤立した記号ではない。誰かに何かを頼む、挨拶をする、冗談を言う、痛みを訴える。そうした実践の中で、言葉は意味を持つ。言葉の意味を理解するとは、辞書的な訳語を知ることではなく、その言葉が生活の中でどのように使われているかを掴むことだ。
だから、同じ言語を話しているように見えても、相手の言葉が理解できないことはある。単語の意味を知らないからではなく、その言葉が置かれている生活の全体を共有していないからだ。
理解を支える「生活の形式」
人間同士の理解も、完全に同じ経験を持つことによって成立しているわけではない。それでも私たちは、似た身体を持ち、眠り、食べ、傷つき、恐れ、他人と暮らしている。そうした重なりが、言葉を理解するための足場になる。
ライオンは、人間とは異なる身体と感覚を持ち、異なる環境の中で生きている。狩り、縄張り、群れ、匂い、音。ライオンの世界を人間の世界へ完全に置き換えることはできない。ライオンが「家」と言ったとき、それが人間の家と同じ意味なのか、そもそも人間の「家」に相当する生活上の区切りがあるのかもわからない。
ここで問題になっているのは、翻訳の性能ではない。翻訳できる語が増えても、言葉を使う生活そのものが共有されていなければ、理解には届かない。理解には、言葉の背後にある身体、習慣、欲求、反応の重なりが必要になる。
『ソラリス』が描く、理解できない知性
この言葉をSFの形で考えさせてくれる作品に、スタニスワフ・レムの『ソラリス』がある。
人間は、惑星ソラリスを覆う海を知的な存在として研究する。しかし、その知性が何を考え、何を望み、何を伝えようとしているのかは、最後まで明確にならない。人間は海からの働きかけを観測し、分類し、解釈しようとする。それでも、その存在と意味のある対話を成立させることができない。
これは、相手が沈黙しているからではない。むしろ、何かが起きているからこそ、人間はそこに意味を読み込もうとする。けれども、相手の「言語ゲーム」も「生活の形式」も共有していない以上、人間の解釈はいつまでも人間側の枠組みから出られない。
私が『ソラリス』について感じたことは、次のようなものだった。
解説がしっかりしててよかった。『コンタクト』には当然こういうパターンもあるよな。人間に理解できることなんてこの世界のほんの一部なんだろうな
この感想は、ライオンのたとえとよく響き合う。未知の知性に出会ったとき、人間はすぐに「コンタクト」や「対話」を想像する。しかし、相手が知性を持っていることと、相手と理解し合えることは別だ。こちらが問いを投げ、相手から反応が返ってきても、その反応を意味として受け取るための共通の生活がなければ、接触は対話にならない。
理解できないことを知る
この言葉は、コミュニケーションを諦めるためのものではない。むしろ、理解したつもりになることへの警告だと思う。
私たちは、相手の言葉を自分の経験に引き寄せて理解する。人間同士でさえそうなのだから、異なる生物や異なる世界の知性を相手にするとき、その限界はもっと大きくなる。相手の言葉を自分の辞書に収めるだけでは、相手の世界に近づいたことにはならない。
理解できないものを前にしたとき、必要なのは、すぐに翻訳することではなく、自分の理解の枠組みを疑うことかもしれない。人間に理解できることが、この世界のほんの一部にすぎないのだとしたら、その一部しか見えていないという自覚こそが、未知のものに対する最初の礼儀になる。